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入梅いわしと銚子大漁節

入梅いわしと銚子大漁節

今も昔も銚子漁港で水揚げされる魚で最も有名な魚、やはり「いわし」ではないでしょうか!
中でも脂がのって味が良いとされる入梅時のマイワシ「入梅いわし」の時期になりました。
去年の「泣くほど旨い魚に会えるまち銚子 入梅いわしまつり」に続き、今年もキャンペーンを予定しています。
銚子にお越しの際は是非ご賞味ください。
さて、いわしを唄った民謡に銚子大漁節がありますが、この全国的にも有名な民謡は、1864 年(元治元年)にいわしの大漁を祝して作られたのがはじまりとされています。
しかし、この豊漁を祝うためにつくられた銚子大漁節ですが、起源とされている年(1864年)に、「大漁説」と「不漁説」の2つの説があるのをご存知でしょうか?

入梅いわし銚子市フォトコンテスト入賞作品 「正月の朝」
今が一番脂がのっていて美味しい「入梅いわし」 銚子市フォトコンテスト入賞作品 「正月の朝」
大漁説

1864年(元治元年)この年は新選組の池田屋襲撃、禁門の変などがあり、まさに時代は幕末、日本中が騒然としていたと思える時期、銚子のいわし漁は「世にもまれなる大漁」だったという事です。
そこで、銚子の漁師さんたちは「大漁節」をつくって白紙大明神(はくしだいみょうじん)(現・川口神社)に奉納し、感謝の意を表そうと考えたと言われています。

白紙大明神 (現・川口神社) 川口神社からみた漁港の風景


当時、銚子の大部分は高崎藩の飛び地でした。幕末から明治にかけて、銚子は現千葉県内随一の活気あふれる町でした。
高崎藩の財政も、銚子に負うところが多かったと思われます。(特にいわし漁がもたらす経済効果)

「大漁節」づくりをつとめた中心人物は、飯沼村(現・銚子市の中心地)の村役で松本旭江(きょっこう)という人物。
松本旭江は、「大漁節」をつくるために4人の人物を集めました。

1人目は、網代久三郎 網元で、大漁節をつくるにあたり漁に詳しい人物が必要だったのだと思われます。
2人目は、石毛利兵衛 質屋・錦屋などを営む商人で俳句もたしなむ人で「大漁節」の歌詞は彼がつくったのではないかと思います。
3人目は、游蝶(ゆうちょう)という名の常磐津の師匠。女性をイメージさせる名だが、目の不自由な男性。彼が三味線を引きながら作曲を担当したと思われます。
4人目は、「きん子」と呼ばれる清元の師匠で「川安楼」という旅館の女主人で、もちろん振り付けを担当したのでしょう。

現代風に言うと松本旭江プロデューサーを中心としたプロジェクトチームは夜ごと、日ごと練重ね制作したのでしょう。
のちに松本旭江の孫・松本信之助氏の証言が「銚子大漁節」の制作を書き記した「大漁歌之記」に書かれてあります。
信之助氏は大漁節がつくられた1864年は14歳の少年でしたが、「大漁歌之記」を書いたのは1927年(昭和2年)77歳のときですので、少年期の記憶とその証言が「銚子大漁節」の定説となりました。

不漁説

銚子の郷土史家・関根昌吾氏が2001年夏にまとめた「再考 銚子大漁節の成立とその周辺」に書かれてます。
関根氏は銚子の豪商「銚子でサマのつくのは観音様と玄蕃様」といわれた田中玄蕃の日記を調べてまとめました。

その日記は、商売のことだけでなく、銚子の町のできごとや気象まで1日も欠かさず記録した田中玄蕃2代61年にわたる「玄蕃日記」で、その日記からは、大漁節がつくられたといわれる1864年に大漁を示唆する記述が全く見当りません。
この年が本当に大漁だったのかと関根氏は疑問をいだき、「千葉県銚子港沿革誌」を調べてみたところ、いわしの〆粕(しめかす)産出量に関する記載をみつけました。

当時のいわしの〆粕産出量 (千葉県銚子港沿革誌より参照)
年号 1年間の平均産出量 (1石=約150kg)
弘化年間(西暦1844年~) 18万4,500石 (約27,675トン)
嘉永年間(西暦1848年~) 28万石 (約42,000トン)
安政年間(西暦1854年~) 9万9,000石 (約14,850トン)
万延年間(西暦1860年~) 11万5,000石 (約17,250トン)
文久年間(西暦1861年~) 13万3,000石 (約19,950トン)
元治年間(西暦1864年) 2万1,000石 (約3,150トン)
慶応年間(西暦1865年) 12万3,000石 (約18,450トン)

万延と元治は元年だけの和暦、ほかの和暦分も1年の平均にしてあるので、そのまま比較対象することができます。
これを見れば、元治元年(1864年)は大漁どころか未曾有(みぞう)の不漁だった事がわかります。  
その説だと「銚子大漁節」は大漁を祝うためではなく、逆に長年続く不漁を打開するため、大漁を願ってつくられたものだったのかもしれませんね。

大漁か不漁かはときの運。人々は大漁のときは、天に感謝し、また不漁のときもくる。
銚子の漁民たちは、あれこれ考え「銚子大漁節」をつくって川口神社に奉納したのでしょう。
松本信之助氏の文章を掘り起こした故 永澤謹吾氏と関根氏は同級生で、共に市内の小学校で教鞭(きょうべん)を取り、住まいも近く、仲良く情報を交わす仲だったそうです。
2人の研究が「銚子大漁節」の魅力をさらに輝かせています。

銚子大漁節の英訳

「銚子大漁節」は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が「漁師の歌」と題して英訳しています。
小泉八雲の代表作といえば、短編集『怪談』ですが、銚子の人にとっては、ヤマサ醤油七代目当主濱口梧陵を主人公にした『生ける神』。
そして、その物語から生まれた国語の読本の教材「稲むらの火」が身近でしょう。

原歌 銚子大漁節の歌詞小泉八雲が英訳した大漁節 漁師の歌(下総国銚子町)

※表記は銚子市と銚子市観光協会制作の「民謡の栞」に準拠。仮名づかいなど一部現代表記に改めました。
口承で伝わってきたため、「この大漁船」の部分を「この大漁だね」「浜大漁だね」とするなど、異なった歌い方もあります。

まとめ

「銚子大漁節」は、銚子市民にとって、現代も暮らしに溶け込んだ大切な歌です。
運動会のプログラム、宴会のフィナーレなど、およそ150年前に作られた「銚子大漁節」漁業関係者だけでなく、幸せを祝い願う歌としてこれからも歌い踊り継がれていくことでしょう。

銚子大漁節の古い写真01銚子大漁節の古い写真02

【協力】
銚子市公正図書館
関根昌吾 氏
写真資料 写真集/銚子の昭和史  株式会社 千秋社

※掲載内容は、2013年5月31日現在のものです。

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